
ミライのヘルスケア
髪の毛1本で分かる!自分のストレスレベル
監修/平 修先生(福島大学 農学群 食農学類 食品科学コース 教授)

うつ病などのメンタルヘルスの不調は、昨今の日本における大きな社会問題の一つになっています。体の傷や痛みとは異なり、心の状態の変化にはなかなか気づきにくいものです。それがうつ病などを引き起こす要因となっている場合も少なくありません。そのため、近年、ストレスのレベルを可視化するさまざまな取り組みが進んでいます。そこで注目したいのが、毛髪1本から1日、1週間、1カ月といった単位でストレスの変化を経時的に見ることができる最新技術です。その研究を手掛ける福島大学 農学群 食農学類 食品科学コース 教授の平修先生に、毛髪からどんなことが分かるのか伺いました。
概要・目次※クリックで移動できます。
毛髪には多くの情報が刻まれている

毛髪1本には、目に見えない多様な過去の情報が刻まれています。スポーツ業界では、ドーピング検査や薬物使用の検査に毛髪が用いられるケースが増えています。
毛髪は、皮膚の表面に出ている「毛幹」と、皮膚の中にある「毛根」に分かれます(下図参照)。
毛根の一番奥には「毛球(もうきゅう)」と呼ばれる、球状にふくらむ部分があります。毛球の中では、髪のもととなる「毛母(もうぼ)細胞」が活発に細胞分裂や増殖を日々くり返し、死んだ細胞が角質化しながら毛幹の方向へと押し上げられるように伸びていきます。
毛球の下端には、毛細血管が入り込む「毛乳頭(もうにゅうとう)」があります。毛細血管から運ばれる栄養や酸素を取り込み、毛母細胞に受け渡す役割を担っています。
前述の薬物などは、体内に取り込まれると血管内に入り、体内を循環する過程で毛乳頭に入り込んだ毛細血管を介して毛根に移行し、複数の化学反応を経て毛髪内部に蓄積します※1、2。
※1:木倉瑠理,中原雄二.依存性薬物の毛髪への移行に関する研究.国立医薬品食品衛生研究所報告.1998;116.30-45.
※2:H.Kimura,M.Mukaida,Amori. Detection of stimulants in hair by laser microscopy.J Anal Toxicol.1999;23(7).577-580.
■毛髪の構造

毛乳頭には毛母細胞の分裂や増殖の促進のほか、毛髪に栄養を送る、ヘアサイクルを正常に保つといった働きがあります。ヘアサイクルとは、1本の毛髪が成長してから抜け落ちるまでの周期のことです。
毛母細胞が分裂・増殖する「成長期」と、細胞分裂が減少し、毛髪の成長が弱まる「退行期」、成長が完全に止まる「休止期」の3段階を経て、自然に脱毛していきます。
■ヘアサイクルのイメージ図

毛髪の成長期の期間や毛髪が伸びる速度には個人差がありますが、1日に平均約0.34mm、1カ月で約1cm伸びるとされています※3。
※3:永山升三,西尾宏.ヘアケアの科学.繊維製品消費科学.1987;28.(6).219-226.
例えば、前述の毛髪に蓄積した薬物は、毛髪の成長に合わせて、毛根から毛幹へと移行していきます。このため、毛根から1cm刻みで毛髪に含まれる薬物を分析すると、1カ月ごとの薬物摂取歴を推定できると考えられています※4。
※4:中島憲一郎.乱用薬物の毛髪分析.分析化学.2008;57(10).783-799.
こうした毛髪の特性を活かし、近年は薬物検査のみならず、体内のミネラルバランスや有害物質の蓄積などを調べる毛髪ミネラル検査も広く行われるようになってきました。
毛髪からストレスが分かる理由とは

さらに最近、注目が高まっているのが、毛髪を用いたストレスレベルの評価です。ストレスを感じると、副腎皮質からコルチゾールというホルモンが分泌されます。コルチゾールは、ストレスを客観的に測定するための指標(ストレスマーカー)としても広く用いられています。
現在、普及している毛髪を用いたストレスレベルの評価は、毛髪中に含まれるコルチゾール量を計測する方法が一般的です。
ちなみに唾液を用いたストレス検査なども多く行われていますが、これは唾液に含まれるコルチゾールの分泌量を測定し、体のストレス反応を調べるものです。
副腎皮質から血中に放出されたコルチゾールは、毛髪が成長する過程で毛細血管を介して取り込まれます※5。毛髪は1カ月で1cm伸びるため、根元から1cmの毛髪に含まれるコルチゾールは1カ月の間に蓄積されたと考えられます。
※5:菅谷 渚,井澤修平,野村收作.新しいストレス評価手法としての毛髪・爪コルチゾールの妥当性.心身医学.2021;61(6).496-505.
また、毛髪に含まれるコルチゾールの濃度が高いほどストレスレベルも高いと考えられ、妊娠による慢性的なストレス※6や、抑うつ症状※7などとも関係が深いことが報告されています。
※6:Kalra S, Einarson A, Karaskov T, Van Uum S, Koren G. The relationship between stress and hair cortisol in healthy pregnant women. Clin Invest Med.2007; 30(2):E103-7.
※7:Abell JG, Stalder T, Ferrie JE, Shipley MJ, Kirschbaum C, Kivimäki M, Kumari M. Assessing cortisol from hair samples in a large observational cohort: The Whitehall II study. Psychoneuroendocrinology.2016;73.148-156.
最近では、コルチゾール以外の新たなストレスマーカーの可能性が、福島大学 農学群 食農学類 食品科学コースの研究グループの研究で分かってきました※8。SeS(硫化セレン)という物質で、ストレスを感じ始めた早期の段階から分泌されるのが特徴です。
※8:平先生への取材を基に作成
同研究で、大きいマウスから攻撃を受けた小さなマウスの体毛の10日間の経過を調べたところ、ヒトのコルチゾールに相当する「コルチコステロン(ヒト以外の哺乳類の主要なストレスホルモン)」は8日目頃から多く検出されました。検出されたときにはすでにうつの症状が重症化していたといいます※9。
※9:平先生への取材を基に作成
一方、SeSは攻撃を受け始めた1日目から検出されています。これらのことから、コルチコステロンはうつ状態を、SeSはうつの手前の状態をそれぞれ反映すると考えられます。
■SeSとうつの関係を表すマウスを使った実験結果

出典:平先生提供
高血圧症1人、うつ病2人、健常者2人の計5人のヒトの毛髪を用いた同研究グループの分析では、5人全員の毛髪内のコルチゾール量は日常的なストレスを反映していて、うつ病の人が特に多いということはありませんでした。
一方、SeSは高血圧症や健常の人に比べて、うつ病の人に圧倒的に多く見られました。
これらの研究から、SeSは精神状態が過敏なときや不安が強いときに産生されると考えられます※10。
※10:平先生への取材を基に作成
コルチゾールだけではうつ病かどうか、あるいはうつの手前の状態なのかを判断することは難しいですが、毛髪内のSeSを調べればうつのサインを早い段階で知ることができ、うつの予防につながる可能性があります。
毛髪1本を分析できる最新技術とは

福島大学 農学群 食農学類 食品科学コースの研究グループでは、「Nano-PALDI イメージング質量分析」という手法を用いて毛髪の分析を行っています。
イメージング質量分析とは、平面上の物質や生体(試料)の表面に存在する分子をイオン化して質量分析し、その分子の空間分布を可視化する技術です。従来の手法では、低分子領域が測定しにくい、高精細な画像を取得しにくいといった問題がありましたが、同研究グループはナノ微粒子を用いることで低分子領域でもクリアに測定し、高精細な画像を得ることに成功しました。
■Nano-PALDI イメージング質量分析結果
ナノ微粒子塗布後のマウス小脳の光学像

出典:平先生提供
有機マトリクス塗布後の光学像

出典:平先生提供
マウスの小脳の一部をイメージング質量分析した画像。上が「Nano-PALDI イメージング質量分析」による光学像。下が従来のイメージング質量分析をした画像。500μm(μm=1mmの1000分の1)以下の低分子領域は従来の方法だと下のように不明瞭な画像になるため測定できないが、ナノ微粒子を用いると上のように鮮明な画像になり、ごく小さな分子も正確に測定できる。
「Nano-PALDI イメージング質量分析」は、1本の太さが約50~100μmといわれる毛髪の分析に最適だといえます。同研究グループでは、毛髪縦断面切削装置を用いて毛髪を縦に切り、毛髪の縦断面に沿った分析を行っています。
これにより、時間軸に沿った生活情報やストレス発生からの経過などを推定できます。
1日単位、1週間単位と、細かく分析できるのは「Nano-PALDI イメージング質量分析」の大きな特長の一つです。
■毛髪縦断面切削装置を用いた実験解析図

出典:平先生提供
うつ病の人の毛髪を3カ月にわたって解析したもの(上)。最近の1カ月を示す毛根側の方がストレスマーカー(SeS)の濃度が高いことから、病状が悪化していると見られる。さらに日別解析で直近14日間を見ると、ストレスマーカーが強く出る日と弱い日に一定のパターンがあることが見受けられる。この場合は不明だが、例えば仕事をしている平日はストレスが強くなり、休日の土日はストレスが弱まるといった見方ができ、ストレスの原因究明につながる可能性がある。
うつの早期発見や予防を目指す

同研究グループが目指すのは、こうした技術や分析を活かし、うつの早期発見や予防につなげることです。現代社会では、誰もが多かれ少なかれストレスを抱えています。その結果、うつを発症したり、うつ症状に悩んだりしている人も少なくありません。症状が悪化し、治療が必要になって初めて過剰なストレスの蓄積を自覚するケースもあるでしょう。
毛髪を用いた分析で自分のストレス状態を早めに知ることができれば、うつへと進行する前に対策を講じることが可能です。
日々のメンタルヘルスチェックはもちろん、出産や育児を経験した女性の「産後うつ」の発症前診断、乳幼児など発話できない人のストレス診断、宇宙飛行士のストレス対策など、「Nano-PALDI イメージング質量分析」による毛髪分析の可能性は広がっています。
数年後には一般の人も自分の毛髪を郵送するだけで、ストレスの経時的な変化などを分析してもらえるサービスが登場するかもしれません。
心身の健康維持には普段の生活習慣や自分なりのストレスコントロールも大切ですが、最新の研究から生まれた技術が、身近な健康診断の一つとして役立つことが期待されます。
監修者プロフィール
平 修先生(福島大学 農学群 食農学類 食品科学コース 教授)
【平修(たいら しゅう)先生プロフィール】
福島大学 農学群 食農学類 食品科学コース 教授
福島大学大学院 食農科学研究科 教授
博士(材料科学)。2004年、北陸先端科学技術大学院大学 材料科学研究科博士後期課程修了。三菱化学生命科学研究所副主任研究員、東成エレクトロビーム 研究開発統括部主任研究員、北陸先端科学技術大学院大学マテリアルサイエンス研究科助教、福井県立大学生物資源学部、同大学院生物資源学研究科准教授、福島大学農学系准教授などを経て現職。